身体化された心と人工の脳

第三回広域セミナーは、本郷の情報学環から基礎情報学の西垣通先生、駒場の総合文化研究科から複雑系科学の池上高志先生のお二人にお越しいただいて、「身体化された心と人工の脳」というテーマで講演していただきました。
タイトルをご覧になって、これは何を意味するのだろうと思われた方も多いと思います。

  • 心が身体化されるって何?
  • 人工の脳って人工知能のこと?
  • その二つがどう関係してくるの?

その疑問は、最後までこの報告書を読んでいただければ、おそらくわかるのではないかなと思います。今までのセミナーと違って、(というか毎回今までと違うものを目指しておりますが)今回は講演者二人と、その対談となっております。その分、若干長くなっておりますが、情報学とか複雑系とかわからないよ、という方にもわかりやすく語られています。それどころか、情報学や複雑系といった枠に収まり切らないくらい、話は広く深く展開していきます。

  • 生きているとはどういうことか
  • わかるとはどういうことか
  • 知識とは何か
  • 研究するとはどういうことか

普段、生活をしていてなんとなく違和感があったこと、なかなか説明できなかったことのヒントがこの対談に見つかるかもしれません。あるいは、まったく新しい知見を得られるかもしれません。

第三回広域セミナーの始まりです。

生命と意識の連続性について

話者: 荒川修作(アーティスト) 聞き手:池上高志(複雑系科学)
日時: 5月29日(木) 18:00〜20:00(予定)
場所: 情報教育棟4階 遠隔講義室(駒場正門入って左)  ※場所がいつもと異なっています!

今回の広域セミナーは、三鷹天命反転住宅や、養老天命反転地といった作品を作られているアーティストの荒川修作さんを迎えして、建築を通して構成される新しい生命論、意識の哲学についてお伺いします。
学問の枠にとらわれない「広域セミナー」に、幅広い分野の方からのご参加をお待ちしております。

身体化された心と人工の脳

講師: 西垣 通(情報学)&池上高志(複雑系科学)
日時: 4月24日(木) 17:00〜19:00(予定)
場所: 情報教育棟4階 遠隔講義室(駒場正門入って左)  ※場所がいつもと異なっています!

今回の広域セミナーは、本郷の情報学環から西垣通先生、駒場の総合文化研究科から池上高志先生をお招きした対談形式となります。 お二人には文系/理系の分野の垣根を超えて、心身問題、身体性、人工生命、サイバースペース、進化、情報、時間、シュミレーション、言語などについて講演、対談をしていただきます。
学問の枠にとらわれない「広域セミナー」に、幅広い分野の方からのご参加をお待ちしております。

西垣通先生
  • 東京大学大学院情報学環 教授
  • おもな著作に
    • 『基礎情報学―生命から社会へ』
    • 『こころの情報学』
    • 『情報学的転回―IT社会のゆくえ』
    • 『ウェブ社会をどう生きるか』など
池上高志先生
  • 東京大学総合文化研究科 准教授
  • おもな著作に
    • 『動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ』
    • 複雑系の進化シナリオ』(共著)
    • 『生命システムをどう理解するか』(湯島誠 編集)など

日本の地質学者はいつから愛を失ってしまったのか?

講師:磯崎 行雄(地球科学)
日時:2008年2月13日(水)16:30〜18:00
場所:15号館4階 409

学問の研究分野が細分化されており、その分野ではスペシャリストなのだけれども、全体が見えにくくなっていませんか。自分がどこにいるのか見えている研究者、あるいは自分の分野において、何が重要なテーマであるのかを理解し、それにチャレンジしている研究者は果たしてどのくらいいるのでしょうか。

今回のセミナーでは磯崎先生が、研究者の研究に対する「愛」について、専門の地球科学を例に、お話してくださいました。

  1. 愛の深さは数値で測れるのか?
  2. 愛をパラダイムで測れるのか?
  3. 日本の地質学の歴史 磯崎先生の研究について
  4. 忘れかけた愛を取り戻すには?

「大学に来てとりあえず生活はしているけれども、必ずしも知的+αを生む研究をしていない。」
パラダイムシフトを起こすような研究はともかくとして、科研費をもらえるような研究をしなくては。」
「学会の流行に反するような論文は書いても掲載されない。」
そう考えている貴方は、目の前の研究だけにかまけていて、研究そのものに対する「愛」を失っていませんか?
今回は、前回とは異なり、途中で口出しOKのディスカッション形式にしてみました。机は中央にあるお菓子台のみ。
第二回広域セミナーの始まりです。

愛の深さは数値で測れるのか?−被引用論文数

貴方の研究の値打ちは、どのように評価されるのでしょうか。よく取り上げられるものとして、自分が書いた学術論文が、他者に何回引用されたのかによって判断するcitation index、影響力のある学術誌にどのくらい掲載されたかによって評価するimpact factor、さらには、論文数と被引用回数を同時に考慮してつくった指標であるh-indexなどがあります。ほかにも、たとえばアメリカでは研究費獲得金額、生徒による授業評価などによる評価もあります。これらによる評価は、近年外部へ公開される風潮が強くなり、望めば自分の先輩や先生が学問の世界でどのくらいのランクにいるかを簡単にチェックできる世の中になっています。学内からチェックできるものとしてはThomson science watch のWeb of scienceなどがあります。ちょっと見てみましょう。

図1は磯崎先生がWeb of Scienceに登録された国際誌に発表した論文の被引用回数です。やり方は以下の通り*1。左のグラフは「各年に書いた論文の数」を、右はそれらの論文が「各年に何回引用されたか」を表します。これを見ると、先生が国際的にどのように影響力をもつのかがわかります。これを見ると、『先生の論文は発表後10年以上たっても引用されているのか』ということもわかったりして、論文頻度以外にも、様々な見方をして遊ぶことができます。その横にh-indexがあります。これは論文数と被引用回数を同時に示す指標で、h-indexが14ということは、14回以上引用された論文が14本ある、ということです。
この「何回引用されたか」ということで評価することは、他分野との規格化が結構難しい問題です。なぜかというと、まず、論文を出す頻度や、論文一本の影響力が、分野によって全く異なるからです。たとえばすぐ記録が塗り替えられたりする分野だと、長い間引用されることはありません。でも地球科学では、長い間データを取って、それで出した一本の論文が何十年も引用され続けるといったことは珍しくないです。だから、図1のような数値化されたデータだけでは、研究に対する愛の深さは測れないのです、というのが先生の結論です。結局、数字で遊んでいてもあまり意味はないというのです。

  • 学生による評価とかも、匿名ではなく、責任を持った評価をしなければいけないでしょうね。いい加減な評価ではなく、きちんとしたものをやっていかなければならないと思います。
  • 学校側も、やはりそうしたデータというのが大事だというので、授業評価とかを始めるようにしていますが、アリバイ作りにならないようにしなくてはいけないですよね
  • そのようなことに先進的な宇宙地球部会では、大学側が発行するものとは別に毎年、授業評価のデータをきちんと出していますよ!(笑)
  • なぜ、宇宙地球専攻はそういうことに積極的に取り組めるのですか?結構他の分野だと、そんなことめっそうもない、とかいう雰囲気があったりしますが。
  • 宇宙地球というか、理論系の分野では結構若い人が理論を作ったりするんですよね。そして作った理論で評価がされる。権威とかそういうものがあまり根強くないからでしょうか。

愛をパラダイムで測れるのか?

次に先生がお話されたのは、「パラダイム(paradigm)」という概念です。これは米国の科学史家であるクーン(Thomas S. Kuhn) が書いた「科学革命の構造」で提唱された概念です。

科学革命の構造

科学革命の構造

私たちの知識の量は時間の経過とともに、徐々にゆるやかに増えていくのではなく、階段状に増えていきます。クーンは一気に知識が増える時代を科学革命の時代、緩やかに進んでいく時代を通常科学と呼び、科学の発展はこの二つの繰り返しであると喝破したのです。パラダイムは次世代の研究の方向性を決め、自分の分野だけではなく他の分野にも大きな変革をもたらすものであります。そして、磯崎先生は「同じ科学やっているなら科学革命にかかわってくるほうが断然おもしろいと思う」と続けられます。
地球科学の分野で20世紀最大のパラダイムといえば、プレートテクトニクスです。この概念が出た前と後では、全く考え方が変わってしまいました。これはプレートテクトニクスそのものを研究している人だけでなく、岩石学者、古生物学者、堆積学者など、地球を相手に研究している人の常識や前提を大きく覆してしまいました。都城秋穂さんの『科学革命とは何か』が、地質学におけるパラダイムプレートテクトニクスがどう受容されていったかを考える上でとても興味深い本として紹介されました。
科学革命とは何か

科学革命とは何か

研究者の値打ちを決める基準は、次世代を切り開くような新しいパラダイムをいくつ創ったかということにあると先生は考えます。しかし、実際どうやってパラダイムであったと評価できるのか。それを図る指標の一例として、「後の時代に教科書に残ることを、どれだけしたか」を考えたらいいのではないかなと思います。教科書と言っても、専門書よりは一般書、さらには高校、中学、小学生向けの教科書となるにつれて、どんどんハードルは高くなっていきます。低学年向けの教科書に載るような仕事ができたら、それはかなりの業績といえるのではないでしょうか。さらに言うのであれば、自分で英語の教科書を書いて、外国でも教科書として採用されるというのも一つの評価であります。先ほどの都城さんなどは、3冊も英語の教科書を残されており、そのような基準で評価されるのも、大事なのではないでしょうか。
近代地質学の最初の教科書にPrinciples of Geology Vol. I-IIIというのがあります。これはかのダーウィンがビーグル号の航海へ持っていき、生物進化を発想する礎を築いたともいわれているものです。そのほかに、William Smithは地質学の父と言われていますが、最近出た彼の伝記The map that changed the world(世界を変えた地図)があります。

The Map That Changed the World: William Smith and the Birth of Modern Geology

The Map That Changed the World: William Smith and the Birth of Modern Geology

世界を変えた地図 ウィリアム・スミスと地質学の誕生

世界を変えた地図 ウィリアム・スミスと地質学の誕生

この本にはわれわれが日常、とりたてて意識することがなく普通であると思っている、地質図を作成するという方法論がどのように作られたかが書かれています。地質図を作成すること自体が、一つのパラダイムだったわけです。
このような話を踏まえて、磯崎先生は、できれば研究者には自分の研究の歴史的な位置づけを理解して研究を進めて言ってほしい、特に、博士号を取ろうとしている学生に、明確にこのような意識を持って研究をしていってほしいとコメントされました。

  • 実際、今のお話を聞いて、博士課程の方、コメントありませんか?実際は無理だよ、とかとりあえず目先のことでいっぱいだよ、とか
  • 私はそもそもチャレンジングなことをしたくて、この大学院に進んだというのがあるので、こういう話は普段自分が考えていることにもリンクすると思います。おもしろくないと研究ではない、という思いがあるので、特に先生のお話を聞いて自分とは距離がある、という印象はないですね。
  • 実感として、博士の3年間というのは、研究者として歩き始めてようやく研究というものがどういうものかわかってくる段階という気がしています。その意味では、磯崎先生の話はなかなかに自分には大それた話のような気がしますが。それでも今後目指していくべきことであると思います。

博士課程の生徒のコメントに対し、確かに、大それた話であるけれども、一人の研究者の研究寿命はせいぜい40年であるから、大パラダイムは無理でも、中くらいのもの、あるいは小さいパラダイムを目指すことは可能だと思う、と先生はコメントされました。つまりパラダイムにも階層性があり、誰々の研究で一気に研究が進んだといわれる、そのような貢献ができるような研究をしたほうがおもしろい、とおっしゃいました。

  • 間違ったパラダイムパラダイムと言えるのでしょうか
  • 正誤は全く関係ないと思いますよ。その時代をリードする考え方をパラダイムというのだから。そのパラダイムの評価は後の時代がする。大事なのは、今パラダイムを作るような先導的な概念を作れるか、ということです。
  • 先生のお話では、パラダイムを作る人が評価されて、それを検証あるいは追認する人はあまり評価されない、という印象を受けるのですが、むしろそのような人たちによってパラダイムというのがパラダイムと認められるのではないのでしょうか。
  • 僕は通常科学を否定しているわけではないんです。通常科学の積み重ねがパラダイムをサポートするわけであるし。ただ、好みがパラダイムのほうにあるだけで(笑)。どっちがよりイクサイティングかというと、やはりパラダイムの中にいたほうが面白いと僕個人は考えています。
  • パラダイムの中にいるということは、わかるのですか
  • わかると思う。というより、何か変わるぞ、という意識がなくて研究をやっている人はどうかと思うけど。それに何より、自分がやっていることがおもしろい、と思わないと研究に対するパワーやモチベーションはなかなか出てこないんじゃないかな。
  • 何か、話を聞いていてちょっと思うのは、パラダイムってやっぱり作ろうとして作れるものでもないと思うんですよ。
  • そうですね。それはパラダイムをどう定義するかということにもかかわってくるのではないでしょうか。今まで考えられなかったことを、考えられるようになるということがパラダイムではないのでしょうか。たとえばアストロバイオロジーというものが最近出てきていますよね。今まで地球の生物の進化を考える上で、宇宙からの影響というのは一切考えていなかった。でもアストロバイオロジーという考えが出てくることで、今まで目を向けていなかった宇宙へ目が向く。もう少し考える範囲は大きいんだなと感じる、考えの自由が広がる。それもパラダイムだと思います。
  • その、今まで目を向けていなかった、というものにしろ、単に違う角度から見てみましたというトンチに近いものも含まれるじゃないですか。そういうのとパラダイムはちょっと違う気がするのだけれどなあ。やはり論理的に説明ができるものをパラダイムというべきなんじゃないかなと。奇抜で単発的なアイディアだけではなく、論理性を重視したものが大事だと。

日本の地質学の歴史 -磯崎先生の研究について

日本の地質学の歴史は明治から始まります。明治初めは、ナウマンに代表されるお雇い外国人教師に「教えてもらう」という時代であって、日本人が世界に問いかけるパラダイムを作るというまでには至っていませんでした。ちなみにこのナウマンはドイツの大学を出たての23歳。野心に燃えてはるか異郷の地である日本にやってきたとのことで、年収はいまの相場で約一億円程度だったとか。時代が大正、昭和と下るにつれ、ようやく日本での教育体系ができはじめ、1941年小林禎一さんが初めて日本列島の形成史を、日本人の手でまとめるという記念的なことへとつながります。
その後、日本列島の形成史の研究は1991年に磯崎先生たちが付加型造山帯の一般的成長プロセスという形で提案、パラダイムを出します。それから10年以上たちますが、また次のパラダイムは出てきていないそうです。「そろそろ次が出てきてもいいころかなと思ってはいるんですが」。

  • パラダイムが必要、あるいはまだ説明できていないことってあるのですか
  • 90数パセーントは説明できるけれど、まだわからないというところはたくさん残っています。

日本列島は地質が複雑で、みかけ帯状の岩石/地層の配列がみられます。中央構造線などを境として石の種類/年代が違ったりしていて、これをどう説明するか、というのが日本列島形成史の重要な問題でした。プレートテクトニクスという概念がなかった時代、地向斜という考え方が主流でありました。たとえば、山の上からもともと海の底にあったはずの二枚貝とかが見つかるとします。そうすると、プレートテクトニクス以前の学者は、その場所は昔海であって、その海で堆積した地層が、後の造山活動によって盛り上がって山脈となったのだ、と考えました。つまり、縦方向にだけものが動くと理解し、横に動く(プレートテクトニクス)という概念はありませんでした。地向斜の考えは欧米で進められ、日本にもそれを当てはめたのが、前述の小林さんです。しかし、この考えでは、いろいろな溶岩や堆積岩とかが日本の至る所に分布すること、さらにはもともと日本になかった岩石があることなどをうまく説明できませんでした。
しかし、プレートテクトニクス概念が生まれ、海側のプレートが横に動き、大陸の下へ沈み込むことで、プレートの上に乗っかっていた、海底で蓄積されたプランクトン主体の堆積物や、大陸起源の堆積物が陸に押しつけられて「付加体」として蓄積していくことが明らかになりました。そして、1980年代初頭には、日本列島の表層地殻の80%は過去の付加体からなることが解明されたのです。つまり、我々は今現在、昔海の底でできた付加体の上に住んでいるということになります。
この考え方は従来の地向斜とは全く異なる考え方です。かつての地向斜説では、堆積物が海底にたまり、それがやがて盛り上がって山になるわけですから、当然、新しい地層ほど上に産するはずです。しかし、プレート沈み込みで付加体が形成・蓄積されるという考え方では、新しい付加体が、古い付加体の下に潜り込んでぐいぐいと押し上げるわけですから、下に行くほど新しいものになります(図2 礒崎先生HPより)。

この考え方によって、見かけ上「新しい地層の上に古い地層が産する」状況を、わかりやすく説明ができるようになったのです。
この付加体という考えの解明に重要な貢献をされたのが、松田哲夫さんという方で、この方が磯崎先生の実質的な指導教官だったそうです。彼は過去の付加体の内部構造を微化石を用いて解析する方法を確立しました(図3 礒崎先生HPより)。

  • 同じ種類の付加体でも年代が違うということはわかるのですか
  • 同じ石だけれども、違う年代であるということは、従来は化石とかで決めていたのですが、化石がでないことがある。そこで放射性年代マッピングという手法を開発したのが僕らの仕事でもありました。
  • 年代が違うというのは、つまりその色分けの境界はかなり明確なものなのですか?
  • 付加体ができる時期とできない時期というのは、わかれているので、区切ることは可能です。

この研究は、たまたま私たちが住んでいる日本列島がどのように形成されているのかということだけを明らかにしただけでなく、大陸がどのように成長するのかという一般的過程を発見したということでした。この研究によって、太平洋の反対側にあるカリフォルニア、オーストラリアの東海岸でも同様に大陸縁がどう成長したのかを説明できるようになったわけです。さらに、もともと地球になかった大陸がどうやって今まで増えてきたのか、また今後どのように成長するかもわかってきます。七億年前に超大陸が分裂し、その後広がった太平洋の海洋プレートが環太平洋の大陸の下に沈み込んで日本列島などが成長しました。それが今後、5000万年くらいすると、日本列島にオーストラリアがぶつかります。2.5億年後には北米大陸がぶつかって太平洋がなくなって、日本はなくなります。次の超大陸の名前もちゃんと考えてあります。AsiaとAmericaがぶつかるので、Amasiaと言います。そのようにして太平洋が閉じる代わりに、今度は大西洋が広がっていきます。結局地球の大陸移動というのは、太平洋が開いて超大陸ができて、次にそれが閉じて大西洋が開いて超大陸ができて、というのを繰り返しているということではないかと言われています。

忘れかけた愛を取り戻すには?

最後に、何点か先生からのコメントがありました。愛のある研究のためには、その分野における重要な研究テーマを取り上げて、新しいパラダイムの確立を目指して研究することが重要である。データをでっちあげたり、他人のアイデアを盗むのはもってのほかだが、そうでなくても本質的に他人のやっていることと同じことを繰り返すのでは下品である。研究者の品格というのを考えなければならないのではないか、とおっしゃいました。
研究者寿命ということを考えると、大体、30〜40代の人が自分でパラダイムを作るようなデータを出していき、50代になったら、今度はもう少し次元の高い視点からの研究をしてほしい。それは、それまでの研究成果を体系化することであったり、次世代の研究の方向性を予言するものであるだろうとおっしゃいました。
あと、やはり研究をする上で不可欠なのは、自分にとっての良い師匠(メンター)に出会うことだとコメントされました。ああいうふうになりたい、と思えるような存在、つまり憧れの対象の存在は大事です。また将来の自分に何かを与えてくれる人物を正確に見抜く能力は極めて重要です。

  • 日本は科学労働者、研究者はいるけれど、学者は少ないのではないかなと思うのです。新しいことを言い出すと非難されたり、馬鹿にされたりする。あるいは、おもしろいことをやっている人正当な評価を得られなかったりする。
  • 危ない論とかリスクはおかさない、という風潮が強いのかもしれないですね
  • それは、危ない論は言えないということなんですか?
  • というより、言ってもしょうがない、というかんじかな。言ったって聞いてもらえないし、変わらないしというような。
  • でも科学研究はそれに負けず新しいパラダイムを出せる、チャレンジングなものだと思いますね。その意味でも、やはり積極的にいろんなことを吸収して一つの分野に閉じこもっているのはもったいないと思います。
  • それは、大学教育の中で行われるものなのでしょうか。それとも、自主的にたとえばこういうセミナーに出てこないとダメというものなのでしょうか。
  • 大学のセミナーとか授業とかだけではない気がします。たとえば知的刺激を受ける人がいるというのはとても大事なことです。ちょっと話しただけでもアイディアがもらえたり、考えさせられたりする。ただ、そういう人が大学から消えている気がする。論文を大量に書かなくったって、おもしろい人だっているのにね。一般に受ける人と、むしろ玄人受けしそうな人だっているわけだし。
  • 最近は論文を書くにしても、量を多くとかそういう方向に動いていますよね。
  • 論文で評価ってのいうのがやはり主流になっていますからね。しゃべってなんぼ、というような。
  • しかし、だからといって、論文を書かなくていいというわけではないですよ。いわば論文を書くというのは必要条件であって、愛さえあれば論文を書かなくてもいいんだ、と言っていられる時代では、やはりもはやなくなっているでしょうね。そこは若い人に誤解を与えないようにしないと(笑)
  • それにまあ、書くことによって考えるし、考えがたまってきたら書かないと次のステップに進めないというのもありますしね。
  • 論文とその影響ということを考えると、科学者の寿命はインパクトをどれくらい与えるかでかなり長くなってくるものかもしれませんね。
      • -

参考資料

*1:学内でWeb of scienceにアクセスし、author finderで、調べたい著者名と、所属していた大学名をチェックします。そうすると、論文のリストが表示されるため、右上にある"create citation report"をクリックします。基本的には、これで調べたい人の論文数や被引用回数などが図化されます。

日本の地質学者はいつから愛を失ってしまったのか

講師:磯崎 行雄(地球科学)
日時:2008年2月13日(水)16:30〜18:00(予定)
場所:15号館4階 409



今回の広域セミナーの講演者、磯崎先生は「好奇心に満ちた(愛のある)科学に対する態度がほとんど絶滅しかけているがゆえに、パラダイムシフトを起こすような研究への挑戦が少ない!」と、日本の地質学の学問としての歴史過程と現状を説明しながら、citation index の妥当な評価、paradigm創成の重要性、研究者のモラル、そしてメンターなどの関連した話題提供をされます。

「大学に来てとりあえず生活はしているけれども、必ずしも知的+αを生む研究をしていない。」
パラダイムシフトを起こすような研究よりも、科研費をもらえるような研究をしなくては。」
「学会の流行に反するような論文は書いても掲載されない。」
こんな声は地質学に限らずどの分野においても共通して囁かれているものではないでしょうか。

今回のセミナーは磯崎先生の講演に対して、様々な共感あるいは反例をあげて議論を展開していくことを目的としています。
はたして愛は失われてしまったのか、それとも愛がなくてもパラダイムシフトは可能で、変えるべきは制度やシステムなのか。

研究に対する愛を失ってしまった方、いやむしろ愛は失われていないんだという方、愛なんてそもそも必要なの?という方、少しの時間、なぜ自分は研究しているのか、東京大学にいるとはどういうことなのかを、お茶菓子片手に考えてみませんか?
広域科学科専攻に限らず、多くの先生・また研究者を志す学生(博士・修士・学部生)の参加をお待ちしております。

融合科学が目指すもの −昆虫、カオス、学習、そして進化−

講師:嶋田正和(進化生態学
コメンテーター:池上高志(複雑系科学)
日時:2007年12月21日(金)18:00〜20:00
場所:15号館4階 409


 2007年最後の授業日の夕方、クリスマス用のお茶菓子を用意した409室にて、第1回広域セミナーが開催されました。一週間前の告知であったにもかかわらず、多くの学部生・院生・先生方による、興味深い議論が展開されました。講演者の嶋田先生はマメゾウムシ、寄生蜂などの個体数動態・採餌行動や繁殖行動といった進化生態学を中心に研究されています。また、嶋田研究室は実験室実験を行うだけではなく、野外調査さらにはモデル解析を併用して生物集団の生態と進化に複合的な視点からアプローチをされているところが特徴です。今回のセミナーでは、嶋田先生の研究テーマである、
1. 集団のダイナミクスと共存の三体問題
2. 内部共生系の進化
3. 記憶と学習による採餌と繁殖の適応行動:記憶と忘却の戦略
から、1と3についてお話ししていただきました。2については、『生命システムをどう理解するか』(湯島誠 編集、共立出版株式会社)の第6章に詳しく書かれています。



「食う−食われる」かは、何次第?
 コガネコバチやコマユバチといった寄生蜂は、その名の通り、宿主であるアズキゾウムシやマメゾウムシに寄生します。コガネコバチがアズキゾウムシの幼虫に寄生する、といったそれぞれ一種ずつの「食う−食われる」の二者間相互関係は、その実験系にもう一種、産卵数や選好性の異なる「食う側(例えばコマユバチ)」あるいは「食われる側(例えばマメゾウムシ)」を足して三種の競合関係にすると、その共存状態はカオス的挙動を生成します。つまり、寄生蜂と宿主の相互関係は、競合する天敵・あるいは餌種を投入することにより、二者間のゆるやかなダイナミクスから打って変った、交替振動を伴う大きなダイナミクスを生成するようになるのです。

3者系のカオス生成


 このような交替振動が起こる理由として、寄生蜂の「学習」能力が寄与しているのではないかと考えられています。あらかじめ「食う側」である寄生蜂に「食われる側」であるマメゾウムシを与え続けてマメゾウムシの匂いを学習させたのち、マメゾウムシともう一種、アズキゾウムシの幼虫から抽出した液を豆の表面に塗ってどちらを選好するかを実験したところ、寄生蜂は豆の中にマメゾウムシの幼虫が実際にはいないにもかかわらず、マメゾウムシの液が塗られた豆を選好することがわかりました。寄生蜂は、事前にマメゾウムシの寄生を経験したことで、マメゾウムシの個体数が増えているということを学習し、その後アズキゾウムシの匂いがする豆を与えられても、以前寄生したことのある匂いを頼りにマメゾウムシへの寄生を試みます。そして、マメゾウムシが少なくなると、次はアズキゾウムシに寄生する、というふうに交互に寄生先を交替することが、寄生蜂・宿主の個体数のダイナミズムに反映されるため、「食う側」あるいは「食われる側」の密度や割合の初期条件を少し変えただけでも、カオスを生成することになるのです。



戦略のシミュレーション:実験室からモデル解析へ
 昆虫はどのようにして餌を探しているのでしょうか。ハエの探索行動を自動追尾システムで解析したところ、『餌に出会うまでは素早い動き、一度餌に出会うとゆっくりとジグザグ歩行』という戦略をとることがわかりました。この戦略は餌が集団行動を取る種であったり、植物であったりというふうに、集中して分布している場合に有効な戦略です。一回餌に遭遇できたら、その周辺にも似たような餌が存在する確率は高いため、ハエは左右にジグザグと方向転換をして餌を探します。それでも餌が見つからない場合は、歩行が早くなり、転換速度も小さくなり、ストレートに近い素早い動きで別の餌場を求めて直進するという戦略に変更します。

ニューラルネットワークによる餌探索の歩行軌跡


 この採餌歩行の記憶と学習を、ニューラルネットワークモデルをつくって解析してみるとどうなるでしょうか。餌が採れたか採れなかったかという各ステップの入力に対して、速度と転換速度だけを出力するモデルをつくります。何ステップ前までの入力を記憶できるか操作して、記憶力が大きいもの(10ステップ前まで記憶できる)と小さいもの(2ステップ前までしか記憶できない)でシミュレーションしたところ、効率の面からすると、どちらも同じくらい餌をうまく発見できることがわかりました。ただし、記憶力が小さい方は反射的に採餌しているため、複雑なタスクを与えると記憶力が大きいものに比べるとうまくは採れません。例えば、同じ餌を探すにしても、?羽化したばかりのメス、?産卵可能なメス、?交尾相手を探しているオス、では採餌と繁殖行動で葛藤(trade-off)が現れます。具体的には、採餌と繁殖するための産卵場所を探すことに費やす時間のどちらをより多く取るべきか、という葛藤です。このような複雑なタスクを達成するためには、ある程度記憶力が必要となってくると考えられます。そこで実際に短期記憶(30分以内)、あるいは中期記憶(数時間〜1日)が低下しているハエの餌探索の歩行軌跡は、健常な記憶力を持つハエに比べてどのように変化するのか、というのが、現在進行中の嶋田先生の研究でもあります。
 このような昆虫の採餌・繁殖行動を観察していると、ある住み場所Aにどれだけの餌と競争相手がいるのかを瞬時にして知ることができ(「理想的な」全知性)、住み場所AよりもBのほうがよいと判断したら、場所間の移動も何のエネルギーも使わず瞬時にできる(「自由な」移動)ということを前提とした『理想自由分布』が決して非現実的なモデルではないということがわかってきます。たとえばアズキゾウムシはアズキに卵を植え付けますが、その時にほかのメスが既にどのくらい卵を植え付けているかを数えることができ、なるべく植え付けられている卵数が少ないアズキを探します。大きなケージの両端にアズキを配置し、ライバルを多く投入すると、アズキゾウムシは飛行など長距離移動をあまりしないにも関わらず、どちらか一端のアズキに偏ることなく両端のアズキに均等に産卵します。このモデルは産卵数の比の時間変化という最適化モデルでは当たり前にシュミレーションできますが、嶋田先生はこれをアズキゾウムシの個体ベースをモデルにした、構成論的なモデルを作れないかと考えています。アズキゾウムシ単体が?Rule of thumb(大雑把に餌と競争者の密度を認知できる)、?頻繁に餌場を行き来する、?記憶・学習をする、というような戦略をとって『理想自由分布』を実現しているところにヒントがあるのかもしれません。



池上先生のコメント:進化を考える面白さ
 全体で45分あまりの講演のあと、五分ほどの休憩をはさんで、後半の質疑応答が始まりました。まず最初に複雑系科学を専門とされる池上先生にコメントをいただきました。池上先生は『進化』を考える上で、実際の生物の動きとコンピュータによるシミュレーションの違いに非常に興味があるとされた上で、生物による『進化』は最適なものを保持するものなのか、それともカオスであるのか、その二つの現象をどう捉えていけばいいのかということを問題提起されました。すなわち、『進化』を考えるうえで、生物の最適化行動とカオスは別々のものなのか、あるいは統合的に見ていくことは可能なのかということです。
 また、二点目として昆虫の行動を見ていると、そこには意味解釈ができる構造があるということが嶋田先生の研究から示唆されているのですが、はたして昆虫など一般的に下等な生物と見なされる生物と、高等と言われている生物に何かしらの普遍的な知性、自然知性のようなものがあるとは考えられないでしょうか、とコメントされました。



コメントへの嶋田先生のコメント
 最初の点について、嶋田先生はカオスも発散系ではなく、あるバウンダリー(境界)の中で生成されるものであるため、最適化行動と相関することもあるでしょうが、適応進化としての最適化とカオスは別々のものであると思うとコメントされました。また『進化』の条件とは、長続きすることであり、その中で適応進化が生じていくけれども、突然変異が起こらないと『進化』速度は遅くなることからも、カオスに陥る一歩手前くらいが、『進化』を考える上で大事なポイントなのではないかともコメントされました。
 また二点目についてはコンピュータで作ったモデルと、本物の昆虫の行動の面白さに同意を示したうえで、高等動物でないからといって知性が上等である、下等であると区別することはできないでしょうと言われました。しかし、逆に人間にできないようなことが昆虫にはできるといった別種の面白さがあると感想を述べられました。



フロアからの質問:学習について
Q.寄生蜂がマメゾウムシへ寄生するように条件づけするということですが、蜂は失敗から学ぶことはあるのでしょうか。講演では、寄生に成功したことを記憶するという成功経験を蜂は学習できることが述べられていましたが、逆に失敗の体験を与えることで、次回その失敗を避けること、あるいは失敗し続けていることを学習することはできるのでしょうか。
A.多くの学習は、むしろ失敗学習であり、たとえばあるハエに、間違えると電気版に触れてビリビリする連合学習をさせます。すると、短期記憶に障害を負ったハエは学習せずに何度も同じことを繰り返すという行動を繰り返します。
Q.しかしショックを与えるといった、ハエの行動をペナライズ(penalize)するものはむしろ自然界にあまりないため、その方法では現実世界とかけ離れてしまうのではないでしょうか。逆に、現実ではペナライズされるというような強い失敗は体験しないのではないでしょうか。
A.餌を食べることができたという成功経験は、脳内物質のドーパミンセロトニンの分泌量でわかるので、逆にドーパミンなどを投与することで昆虫の行動が変わるかを見ることはできます。
Q.それならば、電気ショックのようなペナライズが与えられているわけではない中で、失敗しているのか成功するのかわからないときは、それはハエ自身がその行動を学習しているのかいないのかは判断できるのでしょうか。
A.たとえば長いスパンで見たときに、卵を産む確率が低くなるような自然淘汰アルゴリズムとしては理解可能かもしれませんが、一日単位といった短いスパンの中で、ハエが餌に到達しないときに方向転換を繰り返したりするのを見て、その行動はハエが「学習した」ためなのか、それとも「気まぐれ」でふらふらしているのかは判断できません。

Q.学習した内容は次世代には残らないのですか。
A.学習した情報そのものは残りませんが、学習能力は遺伝します。また、学習情報は遺伝しないとはいえ、真似することによって次世代に受け継がれていきます。また、遺伝子と環境の相互作用も注目を集めている研究分野であり、興味がある人はエピジェネティクスという研究分野を参照してみてください。

 この他にも、「モデルを考える」ということの個別性と普遍性をどう扱うかといったことの議論、実験系で観測できる『進化』と、時間がかかるダーウィン的『進化』の違いについての議論や、タンガニーカ湖における進化速度の話など、幅広い視点からの議論からやや専門的な議論まで様々なトピックスが出ました。結果、予定より30分伸びた20時にお開きとなりました。



「広域」科学でやるセミナー
 学際的であるがために、「隣の研究室は何をしているのだろう」というタコつぼ状態に陥りがちな状況はもったいない、という意識でとりあえず開催してみた第一回広域セミナーでしたが、予想に反して409室にいっぱいの方に参加していただきました。マメゾウムシってどんな虫?という人から、マメゾウムシはとっても可愛い!という様々な学問的バックグラウンドを持つ人々が集まって講演を聞き、さらには議論まで行えることは「広域」ならではの試みであったと思います。嶋田先生には、45分程度で簡潔にわかりやすく、昆虫・カオス・学習そして進化について講演していただきましたが、専門知識がないとわからなかったこと、あるいは理解できなかったこともあると思います。しかし、この講演からマメゾウムシって実はすごいんだ、と興味を持ったり、あるいは自分の専門は生物ではないけれど、『学習』や『記憶』のモデルは自分の専門分野でも重要なテーマであるから、それと共有できる知識があるのではないかと学際的な関心を持ったりするきっかけづくりにも発展させることが、このセミナーのもう一つの目的でもあります。
 オムニバス「講義」とは異なり「セミナー」という形をとっているのは、このセミナーを通して講演者に「教えを請う」のはもちろん、それに対して自分は何を考えるのか、どういうふうな見方をするのかといったことまで、強いて言うのであれば「広域的考え方」を身につける場としても機能していければな、という考えによるものです。
 年明けにも、第二回セミナーの開催を考えております。是非、皆さまお誘い合わせのうえいらしてください。お待ちしております。


参考
『生命システムをどう理解するか』 湯島誠 編集 共立出版 2007年
嶋田研HP