対談

西垣:お話を聞いていて、池上先生はサイエンティスト、私はエンジニア出身であるという違いがあるのかなと思いました。A-Lifeは科学であり、AIは工学寄りです。つまり、AIはビジネスに結び付いていて、最終的に製品がどう社会の役に立つかということを目指している。一方、A-Lifeというのは、世界の謎を解いていくという姿勢が強い。それは単純にどちらのアプローチがいいかという問題ではないでしょう。たぶん、両方とも大事なんです。

池上:AIは工学でA-Lifeは物理、基礎科学という面は、確かに強いかもしれない。僕がA-Lifeをやりだした動機の一つとして、AIが作ったコンピュータ以外のメタファーを使って生命を説明したいというのがあった。たとえば、脳を語るとき、コンピュータのメタファーを使いますよね。脳のここがCPUで、メモリでとか。そういうのとは違うのも作りたいと思って。

西垣:生命を考えるとき、私は自分自身のことを考えます。私がなぜ一人称的なアプローチに傾くかというと、自分が死ぬ瞬間、自分について語れるのか、という問いにすごく興味があるからなんです。ロボットがもし意識を持っているとしたら、交通事故にあったとき、どうなるのか。ここで死の問題がでてくる。太古の原核生物は単に増殖するだけで、個体としての死はない。真核細胞が出てきて、はじめて個体として死ぬんです。私という個体が死ぬ、そうすると私の意識はそこで断たれてしまう。個体とは袋小路であると、友人のある文学者は言うんですね。私もそう思う。一人一人、個体が袋小路に追い詰められたとき、意識が世界をどう一回性をもって認知するかに興味があるんです。だから一人称記述を無視できない。一方、池上先生は、生命体の奥にどういうメカニズムが潜むのかを、深く、システマティックに知りたいという基本的な動機があるんじゃないかな。

池上:僕は病気が怖くて、死ぬのが怖いのもあるから、死ぬことの恐怖というのは研究の動機になっています。だから死ぬシステムをつくるのは重要なことで、油が2分間で死ぬっていうのはある種成功だと思うんです。ただ油が子供を残したり進化したりするのは数回しかいかなくて、その理由はゴミがたまるからなんです。自然界の生命のいいところはリサイクルが発達していて、ゴミがたまらない。人工に作るとすぐゴミがたまる。バイオスフィアという実験があって、あれは中でできるだけサイクルさせるというもので、そういうアプローチがあってもいいと思うんだけど。ただあれは中にいる人がいろいろな意味で問題となって失敗したらしいんだよね。そういうところから、閉じさせて循環させることの危うさというのも研究するとおもしろいかなと。

司会:池上先生は生きているということは「動いていることだ」と定義されましたが、では西垣先生にとって「生きている」とはどういうことですか。

西垣:私が研究している基礎情報学では、オートポイエーシス(autopoiesis)理論をもとにして生命現象を考えています。認定科学者・生命哲学者のヴァレラ(Francisco Javier Varela Garcia)は、オートポイエーシスを「(膜を自分で作っていく)細胞」と直結してとらえました。自己言及的に膜、つまり境界を自分でつくりだしていく存在を生命と捉えている。詳しい定義はオートポイエーシスの本にあります(マトゥラーナ&ヴァレラ『オートポイエーシス河本英夫訳、国文社、1991年)(Francisco Varela “Principles of biological autonomy”, Elsevier/North Holland, New York, 1979)。自分自身をつくると同時に、世界や環境をつくり出していくものが「生命」であるとすると、A-Lifeはどう位置づけられるのかなあ。もしヴァレラが生きていたら、今はまだ駄目でも、やがて幾つかの条件をみたせば、A-Lifeも生命になりうると言うかもしれない。

司会:じゃあ、池上先生が見せて下さったものを「生命だ」と思う方はどのくらいいるんでしょうかね。あ、誰もいない?

池上:でもさ、たとえ全員が「あれは生命だ!」って言っても、僕自身が生命だと思えなければあれは僕には生命ではないから。多数決で生命に決まったと言われても、困るよね。定義ってのはそういうことで決めていいわけじゃないよね。逆に僕が確証したら、僕一人しか信じてなくても、それは「生命ではない」という人に説得的になるように理論構築するだけだし。

西垣:それとかかわってくると思うのだけれど、分子生物学の研究者でも、決定論的なことを言う人ばかりじゃない。たとえば遺伝子治療をするとして、もし「ガン遺伝子」が見つかればすごいでしょう。でも「ガン遺伝子」と呼ばれるものなんて存在しないと、彼らは言います。ゲノムの中での複雑な相互作用や関係性の中でガンになるんです。その意味では、病気というのは一回性を持っている。だから、対症療法的に、患者とコミュニケーションをとりながらオーダーメイド治療をやっていくしかない。ゲノム解読だけでは分からないというのです。つまり、本質的なところまで踏み込んでいくと、解明が進んでいるはずの分子生物学の領域でも「生命」とは何かよくわかってない。

池上:僕が言った、「寄り添う」ってのは、治療とも関係があって、西洋医学的に原因を究明するcureと、治していくというcareがあると思う。「元気とは何か」とか原因究明するためにcureしていくのだろうけれども、それだけでは元気とは、生命とは何なのかわからない。材料や原因からだけ見ていくと、生命なんてわからなくて、careから見ていくとわかったりすることもある。

西垣:鎌田實という医者の友人がいて、彼はcureのシステムの中でcareが大事だといって実践した人です。私は医療とか情報という分野は、ある意味で、一人称的な分野だと思っています。でも医療活動や情報現象を客観的・形式論理的に捉えられるものだと考える人もいる。ヴァレラはそれをノイマン(von Neumann)のパラダイムだといいます。逆にもう少し主観的な側面をいれるのはウィーナー(Norbert Wiener)のパラダイム。ウィーナーとノイマンはライバルだった。ヴァレラが言うには、これまであらゆる分野で、ノイマン流の、客観性を重視した数理的なパラダイムが圧倒的な勝利をおさめてきた、と。でも私は、主観性を大事にするウィーナーの立場も大事じゃないかなと思うんです。ウィーナーはサイバネティクス(cybernetics)を提唱したんだけど、それは、自分が対象を観測して、自分で定めた目的関数との差を縮めるようにコントロールしていくというものです。次に出てきたセコンドオーダーサイバネティクス(second-order cybernetics)は、「対象を観測している当の自分」を観測しなきゃいけないと主張した。このことは、池上先生がおっしゃっている、「わかる」とはどういうことかとか、「寄り添う」ことと関連しているでしょう。ヴァレラやマトゥラーナはセコンドオーダーサイバネティクス研究グループのメンバーでもあった。私はセコンドオーダーサイバネティクスの延長上で、情報現象を考えたらどうかと思っているわけです。

池上:デルブリュック(Max Ludwig Henning Delbrück)というタバコモザイクウイルスでノーベル賞をとった分子生物学者が、サイバネティクスの研究会に招かれたときに、彼が数学的、物理学的にとらえようとするのに際し、ベイトソンダブルバインド理論/論理階家型の上昇などを提唱したアメリカの哲学者)が「そもそも学習とは何か、笑いとは何か」とか言い出すから、哲学談義の嫌いなデルブリュック自身は「それは違うんじゃないか」と怒ってしまい、サイバネティクス研究から離れてしまった。ベイトソンとかミードとかは意識とか自我とかを考えないと生命とは何かはわからないと思っていた節がありますから。おもしろいのはデルブリュックも分子生物学を立ち上げた後は、知覚や心の問題に関心を寄せていたことです。結局はそこに戻ってきます。ベイトソンは論理と思想の中で、意識とは何かとかいうことを展開したものであり、対極するものではなくて、表裏の関係にあるものだと思うんですよ。

聴衆1:何が生命ではないということの共通見解とかってあるのですか

池上:僕は別に正解をもとめているわけではないから。ヒッチハイカーズ・ガイド・トゥー・ザ・ギャラクシーっていうSFがあって、それは宇宙の謎を探究に冒険に出るんだけど、答えそのものに意味はなくって、それを探すべく旅をするのが答えになっているんだよね。たどり着く過程が答えになっている、そういうことが結構世の中多いんじゃないなと思う。

The Hitchhiker's Guide to the Galaxy

The Hitchhiker's Guide to the Galaxy

西垣:何が生命でないか、ってのは、本質的には、何が生命かと同じ問いだよね。でも、少なくとも生命の必要条件をみたしていない、という理由で否定することはできる。たとえば「地球は生命体である」という人がいるけど、私はそれは違うんじゃないかなと思う。地球は複製もしないしね。ただし、生命の定義うんぬんといった話は、あまり生産的な議論を引き起こさないし、つまらない。あえて言うと、私は、生命とは未来へむかってemergence(創発)をつづけていく、わけのわからない側面を持っているものだと思う。そういうおもしろさを持っているものが生命じゃないかな。

池上:あと、付け加えて言うなら、生命とは何ではないかは分野によって違う。非平衡状態を保つものが生命とか、システムがどうこうとか、それはトリビアルな違いだよね。僕がいいたいのは、「これが生命である」ということと「死ぬことが怖い」ということは無関係ではなくて、それを別々に話していても意味がないんじゃないかということ。そういう意味では「これが生命である」と科学的に何か言ってノーベル賞を取れたとしても意味がないよね。

聴衆2:さっき池上先生は、自分が「これは生命である」と思ったら理論構築して「生命である」ことを説明するとおっしゃっていましたが、先生が「生命である」と思うというのは一人称であって、それに納得した人が増えていく、と定義ができて、それが三人称になってしまうということなのでしょうか。ちょっと一人称と三人称の違いがわからなくなっているんですが。

西垣:一人称と三人称の区別という表現は、わかりやすいから言ったけれど、厳密にはもっと複雑な構造をもっています。基礎情報学の中では、コミュニケーションシステムの中で人々が納得したりしなかったりすることがポイントです。端的には、ある人の言う一人称的記述でも、周囲の人々がみな納得したらそれは客観的な三人称記述に近づく。いろんな共同体があって、それぞれが自律的なコミュニケーションシステムをつくっている。その中でコンセンサスを得るかどうかが問題です。だからといって、客観性などない、すべては相対的だというわけじゃない。コンセンサスを得るにはきちんとした手続きがある場合も多いわけです。たとえば、科学者共同体の中で認められるためには、普通、論文がアクセプト(査読通過)されなくてはいけない。さっき言った集合知も、発言者責任の設定をどうすればいいのか、私は今考えています。

聴衆3:たとえばあるものを見て、ある時は生命かなと思うけれど、次のときには生命ではないと思ったりする。生命の定義というのは個人の中でゆらぐし、社会的コンセンサスの中でもゆらぎますよね。あるいは三歳児のところにAIBOとかを持っていくと、知能を持つ存在、生命と感じる。それを、科学者の考える生命と三歳児の考える生命は違って後者は間違っていると言った瞬間に「生命」の問題はおかしくなってしまう。チューリングテストとかの意味もおかしくなってしまいますよね。生命とか知能とは何かを定義するのではなく、ある存在に対して生命とか知能だと感じる存在をどのように表すかが本質的な問題だと、聞いていて感じました。

聴衆4:「動くもの」が生物なら、ブラウン運動とかと違うのは何なのでしょうか。

池上:それはある意味では簡単な質問で、ブラウン運動からどのくらいずれた動きをするか、自律的に動くことによるパターンがあるかというのが違います。デザインされている動きと、ブラウン運動も違う動きをするが、生命の自律的な運動はそれとも違う。

聴衆4:たとえば、ネコを飼っている人はネコに心がないといったら怒ると思うんです。あるコミュニティである対象に心があるとみなすことで、生命とみなすことになるのでしょうか。

池上:僕は定義云々とかより、日常のメタファーをぶったぎって新しい科学をつくることが大事だと思います。生命を研究をしたら新しい認識論が生まれるかもしれないと思ってやっている。新しい数学とか思想とかを見たいと思っているから、別に「生命」そのものをわかりたいというわけではない。「生命」そのものがわかったとして、それは本当におもしろい保証があるか?自分が今わからなかったものが出てくるに違いないというような期待があることがおもしろくって、答えがどんなものかはわからないけれど、普遍的な生命とは何かの答えを得るよりも、変な生命体に会うことの方がおもしろいことだってあるだろう。研究ってそういうことだと思う。たとえば科学のProductivity(生産性)とhealthiness(健全さ)ってのが重要だと思う。研究をやってみてわかることってのはあるから、生命とは何かにダイレクトには向かわないかもしれないけれど、そこの過程で得られることのほうが大事だと僕は思う。それは理学部的な発想であって、社会的影響を考慮にいれなければいけない工学的なものとは違うでしょ。ただし、新しい考えの社会的影響力とかパブリックの中での科学の動きとかはおもしろいと思っていて、だからアートとかも最近は自分でやっているんだけど。

西垣:池上先生は生命の謎を解きたいと考えて、頑張っておられる。実際、まさにそれこそが新しい生命活動なんですよ。これが生命だっていう既存の定義をくつがえして、予定調和を崩していく。そこに「生きる」というダイナミックな本質がある。縦割りの知だけでは問題であると私は先ほど言いました。池上先生も私も横割りです。ただ、池上先生は、対象は横割りだけれども、方法論は一貫している。ピュアな数理モデルを使って攻めていくものだと思います。それに対して自分はどうなのかなと顧みると、同じ横割りでも、私の攻め方は分野ごとに柔軟というか、揺らいでいます。そうすると武器は自然言語しかない。以前、私も数理的な方法論をとったこともありましたが、あれはピンポイントで当たらないとうまくいかない。モデリングに鋭い直観が必要です。一方、自然言語というのはものすごい体系であって、芸術、技術、社会など、なんでもメタなレベルで論ずることができる。横割りの場合、池上流と西垣流の二つのアプローチがあって、方法論としては中途半端はダメですね。