池上先生 講演

AIとA-Life

西垣先生は僕が大学院のころから存じ上げていて、僕の専門は複雑系とかコンピュータの中で生命を作るという人工生命ですが、コンピュータは何ができるのかとか、コンピュータの将来について考えさせられました。初めに、先ほど出てきた第五世代コンピュータとかなどのAI (Artificial Intelligence:人工知能)と、僕がやっているA-Life (Artificial Life:人工生命)の違いを説明したいと思います。この二つは全然違う。AIは基本にはデザインやどういう言語の設計をするかが強くあって、これが進歩してインターネットを作り出したといえると思う。一方で、A-Lifeのほうは、特徴が二つあって、ひとつはGeneratorであるということ。新しい構造や形、パターンを創り出す(generate)方法論であって、デザインしなくても自動的に変異体を作っていくことができた。これは人が神になれるということで、5億とか6億年とか待たなくてもシミュレーションによって、いろいろなものを自動的に加速して創造できるということだった。人が設計しなくちゃいけないAIに比べて、原始的であるけれどものすごくパワフルなGeneratorさえ入っていれば、それで世界が作れるんだという確信をA-Lifeを作ったんです。もうひとつの特徴はIndividuality(個別性)で、個別性は例えば物理学ではほとんど扱われていない。質点が集まって作りだす複雑なパターンの研究をすることはあっても、その点の中に複雑なダイナミクスが装備され、それが自由に空間を動き回ったりするという研究は全くなされていなかった。そうした内と外の複雑性の問題。
AIには明確な「個別性」はなかったし、generatorという考えもなかった。A-Lifeでは例えばコンピュータシミュレーションで、あらかじめ人工的な化学反応をインプットしておけば、それが個別性を進化させ、自分で補修したり動き回ったりといった、まるで生命のようなものをつくる、といったことが研究目的となる。今まで、ものすごく言葉を尽くさなければ語れないと思われていた「生命」というものが、簡単な方程式や条件を投入するだけで、コンピュータ上にその片鱗をみせる。それがA-Lifeというものです。AIのようにきっちりデザインしなくても、我々が自然現象で観察しているものが、多様性が、計算モデルとして扱えるようになったんです。

A-Lifeで生命は創れるのか

では、人工生命をやることで「生命」が理解できるのか。僕らがA-Lifeをやっていた間に、分子生物学の研究が非常に進みました。分子や原子の動きを見ればボトムアップ的に「生命」がわかるという考えのもと、原子分子がひとつひとつがどう動けばシステム全体はどうなるのかとに関して、システマティックに研究が進んでいって、データもたまってきた。このアプローチに懐疑的ではあっても、ここまでデータがたまってくると、何か演繹できるのではないか、という気になるし、それに人工生命がそれに対抗できるかというと、実際、今A-Lifeから生命はできていないし、そのわかり方も限定されていますよね。どうして、未だに、コンピュータの中でも構わないから生命が生まれないのか、ということは誰にも説明できないでいる。
ブルックス(Rodney Brooks)という人が、20年くらい前にSubsumption Architecture(包摂アーキテクチャ)を用いてすごく簡単なロボットを作った。よく従来のAIと比較してこれは新しい方法論であったとされるわけだけれど、特別なことは別になくて、ただ内部の複雑なプログラムでロボットを賢くするのではなく、賢さの起源を外に求めるということです。別な言葉でいうと、理性(reason)なき振る舞いと言われるように、内部表象がなくてもちゃんと環境に適応して振る舞う。だからそんなに一生懸命ロボットをデザインして作ろうとしても意味はないよ、というのがブルックスの主張で、それはまた人工生命の主張ともつながって、自律的ロボットは人工生命研究の一大トピックスになったわけです。このロボットは、今のところあまり賢いことをするようにはなっていない。それでも他の高性能なヒューマノイド・ロボットに比べてずっと生命っぽくみえる。今のロボット工学はこういったオートノマス(autonomous:自律的な)ロボットというような考え方はなくなっていて、とにかくいっぱい設計するんだ、というふうになっている。
ロボットがなかなか本当の生命には近づけない理由、ブルックス自身は、それは”juice”が足りないんだと表現した。

Flesh and Machines: How Robots Will Change Us

Flesh and Machines: How Robots Will Change Us

生命に必要と思われるいろいろな材料をかき混ぜても生命にはならない。最後のひと絞りのジュースが必要というわけだ。この”juice”が新しい材料なのか、考え方なのか、新しい数学なのかはわからない。だけれどもその何かが見つかっていないので未だにロボットもプログラムも生命ではない、というわけです。

化学物質で生命は創れるのか

一方、コンピュータの中で作るのではなく、実際に化学物質を用いて現実の世界に「生命」を作りだすという方法論を考えた人たちもいます。そうした研究者の一人であるルイジ(Pier Luigi Luisi)は、化学で生命の起源を探すことをやってきた人であり、彼は”The Emergence of Life”っていう本の中で、なんで生命ができないのかを論じています。そこでは材料よりもプロセスやフレームを考えることを提案しています。

The Emergence of Life: From Chemical Origins to Synthetic Biology

The Emergence of Life: From Chemical Origins to Synthetic Biology

最近は僕もイタリアのマーティン・ハンズィック(Martin Hanczyc)や東大の菅原先生や富田君と協力して、化学物質を用いて動く生命っぽいものを創り出すという方法を試しています*1。これは、オレイン酸という化学物質を使って、生命っぽいものを作ってみました。

オレイン酸は疎水基と親水基持っていて、油と水の間を囲むんです。この図は油なんだれけど、膜で丸く形を形成するだけでなく、反応を起こしながら自分の膜を作りながら動いていく、進んでいく。これは、A-Lifeと同じように別にデザインしたわけではないけれど、自分で動いていくっていう意味では、自律性を持っています。内部で生じる滞留構造が化学反応を持続させ、それが表面張力を介してマラゴニアン効果をもたらして、自律的な運動を起こしている。では、はたしてこういう化学実験からついには「生命」を創り出す可能性があるのか。

「わかる」とは何か

化学実験ですぐに「生命現象っぽい」ものが形成できると言うと、やっぱりコンピュータで生命っぽいものが作れなかったのは、物理法則にしたがった自然の系ではなかったからだ、と安易に結論づけがちだけれど、それでいいのか。それは、自然の中だと何かUnknown(未知)な力が働いてそれが助けてくれるんじゃないかという信仰にすぎない、と僕は思います。また別の問題として、この化学実験をやった僕たちにしてみたら、自分でこういう膜を作って油が動き出したりすると「おー!すごい!」とか思うけど、ほかの人に「え、でもそれ油じゃないですか。油が生命なの?」と言われかねないわけで。つまり、ここでの問題は「生命がわかる、あるいはつくれる」とはどういうことなのかが「わかってない」。「できた!」と思うことと、「それは油に過ぎない」という、この差は何なのか。
「わかる」とはどういうことなのか。Googleの誕生によって、西垣先生のおっしゃるように、たいていの知識はウェブに落ちている。その結果、昔の「わかる」と今の「わかる」って違います。でもそのgoogle的わかり方、google的知性とは違う、昔なりのわかり方の良さもあって、これロマンティックサイエンス的分かり方と言おうと。この昔ながらのわかり方を、僕はどうしてもまだ捨て切れないでいる。特に生命について分かるとは、フレーム問題にも抵触するし、対象化にした世界として生命を切り出すことに失敗する、そのことが大事なことだと思うわけです。

「わかる」ことの主観性の大切さ

生命そのものは、少なくとも僕の考えでは、ある程度その生成された、生命現象に寄り添うことでしか理解できないのではないかなと。つまりはわかるというのは、自分にとって分かるということであって、それは一般的な知覚の問題と関係している。そこで興味があるのはクオリアです。クオリア問題は、知覚の問題であって人工生命の問題としては扱われてこなかったものだけれども、「生命をわかる」ということはクオリア同様きわめて一人称的なことであると思う。
クオリアというのは、ものの質感に関するもののことで、赤色の波長をなぜ「赤い色」として感じるのか、といった科学的説明の枠組みそのものの外にある問題です。生命同様クオリア問題も今のところどう捉えたらよいか、分らない。しかし、例えば最近うちでは46inchのデジタルテレビを買ったんだが、そのビビッド感に完全に圧倒されたんです。あまりにも圧倒敵なリアリティーをもってアレッチ氷河だのギアン高原が迫ってくるから、本当にそこにいるかのような気持ちになる。
たとえばこうした体験から「処理しきれないほどの莫大な量の入力データ」というものとクオリアが何か関係しているのではないかなと最近は考えている。これは最初に言ったブルックスのロボットに足りない「何か」とも関係していると思う。ロボットのセンサーに入ってくる入力は限られていて、入ってくる情報が少ないんです。A-Lifeをやるときも、とても入力が制限されている。でも現実には圧倒的な情報があって、それが生命や意識を成立させ現実に存在させている。A-Lifeでは「(過剰な)情報量」っていうものが、今まであまり考えられていなかったんじゃないかなと思う。処理しきれない過剰な情報にさらされることが必要なのじゃないかと思いました。
あともうひとつブルックスの足りないジュースに関係があるのは、時間の進行というものです。リベット(Benjamin Libet)の脳生理実験によると、脳は時間を編集しているらしい。

Mind Time: The Temporal Factor in Consciousness (Perspectives in Cognitive Neuroscience)

Mind Time: The Temporal Factor in Consciousness (Perspectives in Cognitive Neuroscience)

つまり、客観的な時間と並列して、行きつ戻りつする主観的な時間の流れが頭の中にある。そういった主観性を再構成することが、「生命になれなかったもの」の理由を考えることの鍵になるんじゃないかな。A-Lifeとかつくるときは客観的な時間の進行や進化という大きなの方向付けに縛られているけれども、新しい主観的な時間に対する理論化の余地がないと、それは生命にならない。それこそA-Lifeに足りないものと結びついているのではないかと思います。

*1:Hanczyc, M., Toyota,T., Ikegami, T., Packard, N. and Sugawara, T. " Chemistry at the oil-water interface: Self-propelled oil droplets"J. Am. Chem. Soc.; (2007); 129(30) pp 9386 - 9391;