西垣先生 講演

心を持つコンピュータは可能なのか

テーマにある「人工の脳」に私が興味を持ったきっかけは、1980年代に通商産業省が立ち上げた「第五世代コンピュータ開発」という国家プロジェクトと関連しています。これは当時の日本の第一線の研究者が官民一体で取り組んだ、画期的なコンピュータだったのです。目的は、世界に先駆けて斬新な国産コンピュータをつくること、とりわけ言葉を理解するコンピュータの開発でした。論理型言語を直接ハードウェアで並列処理するという、今までなかった考え方や概念の提案、そしてそれを実際に作った、というところがすごい。それなのに、第五世代コンピュータはなぜ、ほとんど使われないものとなってしまったのか。
一方、ちょうどそのころ、大量生産型のパソコンやワークステーションなど、今我々が使っているようなコンピュータが出始めました。今のパソコンはハードウェア自体はシンプルで、ソフトウェアが複雑になっている。人間の言葉を理解するというよりは、人間とのインターフェイスに重点がおかれています。そして、こちらが主流になりました。どうして第五世代コンピュータは挫折してしまったのか、心を持つコンピュータはできないのか――これが私の問題意識です。

一人称的記述と三人称的記述

機械の心というのは、mind body problem、心身問題の一つです。昔、百科事典の中身をひたすらコンピュータにインプットしていた研究者がいたそうです。しかし、それで「心を持つコンピュータ」なんてできませんよね。私はここに「一人称的記述」と「三人称的記述」の差があると考えています。ヴィトゲンシュタインは「私は今、歯が痛い」という記述と「私の腕が折れている」という記述は全く異なると言いました。「私の腕が折れている」というのは否定命題が成り立ちます。レントゲンをとって「折れてないじゃないか」と反証することが可能です。しかし「歯が痛い」というのは、主観的記述で、反証が不可能です。これは内容の分類で、文法的分類ではありません。たとえば「空は悲しいほど澄みとおっていた」という記述は、形式的には三人称ですが、内容的には一人称です。否定しても意味がないわけです。私は、一人称的な内容を表現できるコンピュータをつくらないと、コンピュータが心を持ったと言えないと思うのです。
このような問題は、ヴィトゲンシュタインだけでなく、フッサールハイデガー、さらにソシュールなど、哲学者や言語学者が昔から考えていたものです。しかし、それが、第五世代コンピュータをつくったエンジニアたちには届いていなかった。ここに縦割りによる知の分断があった。もう少し学際的な交流があれば、第五世代コンピュータの内容も違ったものになったのではないでしょうか。客観的な、三人称的記述だけにとらわれず、クオリアと言われるような一人称的な記述、あるいは主観と言われるものの大切さを考慮にいれなくてはならなかったのではないでしょうか。
翻って現在の情報社会を考えたとき、すべての情報が、三人称的記述に偏ったものになりつつあると感じています。人間が機械的になっている。そうでない情報社会があってもいいのではないかというのが私のスタンスなのです。そこで情報というものを基礎から考えたくなって、「基礎情報学」という学問を始めました。

基礎情報学―生命から社会へ

基礎情報学―生命から社会へ

断片化された一人称

半世紀くらい前、哲学や思想には三つの流れがありました。(1)マルキシズム、(2)サルトル・メルロ・ポンティなどの実存主義、(3)論理実証主義分析哲学です。これらのうち、マルキシズム実存主義は時間や歴史とかかわっている。つまり、未来に向かってどう生きるべきかといった価値観を教えてくれるものでした。しかし、両者はともに退潮してしまいました。実存主義は静的な構造主義、さらに概念の根本を問い直すポスト構造主義にとってかわられました。その中で、論理実証主義分析哲学は未だ残っているばかりか、情報社会のベースになっていると言っていいと思います。
このように現在の社会の思想的なベースは、静的・非歴史的で、形式や論理が中心です。ですから、生きていく上での「不安」といったものを受け入れてくれるような、緻密なロジックがなくなってきていると私は感じています。ウェブ空間で「自分自身」というものが機械的な断片になっていく不安を感じたことはありませんか?私はそういう不安を書きたくて、このあいだ小説を出版しました。

サイバーペット/ウェブ生命情報論

サイバーペット/ウェブ生命情報論

端的に言うと、現在の情報社会では、一人称的な記述が抑圧されている。また我々の個々の一人称的な記述を、もう少し大きな共通回路につなげていき、生の不安を和らげるための社会的装置が見えにくくなってきているのではないでしょうか。

端末ベースからウェブ空間ベースへ

世界の機械化が蔓延しているなかで、生命論を再考すべきなのではないかと私は考えています。もちろん、これは機械排斥論ではありません。たとえばいまのGoogleの検索サービスに代表されるウェブ2.0をはじめ、ITには非常におもしろい技術の萌芽があります。ウェブ2.0の特徴は、今までのパソコン端末から、ウェブ空間へと処理のプラットフォームがシフトしていったということです。しかし一方で広告と市場原理が入り込み、「知識はウェブから検索すればいい」という安易な考え方が流行しています。しかし、これはおかしい。ウェブ空間の中から機械的に検索できる概念的な知識は大半があくまで「三人称的記述」にすぎません。それだけを「知である」というのは、百科事典をパソコンにインプットしていくのと変わらないでしょう。むろん、ウェブ空間内の知識も役にたつし、実際に私もGoogleでそれらをよく検索しています。しかしそのことは、一人称的に「自分が考える」ということとは別物なのです。だから、ウェブ2.0で満足するのでなく、さらに次のステップを考えなくてはいけない。

専門知と集合知

ウェブにはいろいろな使い方があると思います。今の社会は縦割りの専門分化社会です。ある程度の年齢になったら、誰もが専門を絞らざるをえない。しかし、専門知、つまり狭い専門分野の知識とは別に、集合知(Collective intelligence)と呼ばれるものがあると思います。今後、縦割りの専門知から横割りの集合知へというパラダイム変換が起きるのではないか、と私は思うのです。それは単なる知識の寄せ集めとは異なり、サイバースペースで一人称的な体験を基にして作り上げる実践的な知のことです。たとえば、Wikipediaやブログなども、集合知の第一歩として位置づけられるものかもしれない。たとえば、自分の子供が難病にかかったとします。どこの病院にいって、家庭ではどのように対応したらいいのでしょうか。専門知としては、様々な医学知識があり、論文も書かれているでしょうし、社会的な補助制度もあるでしょう。しかし専門的な文献は、いずれも専門用語で書かれていて普通の人には理解が困難です。そのような専門知とは別に、同じ病気の子供をもつ他の人々の体験ブログなどをウェブ上でうまく整理、編成して提示してくれれば、それは実践的な横割りの知、集合知となりうるのではないでしょうか。
三人称的な専門知には、どこか「知のための知」といった部分があります。非常にpureな性格をもち、客観性が求められます。一方で集合知は、厳密性には欠けるにせよ、「信念」とか「経験」、「生きるための知」といった身体性を伴っています。むろん、単に今のブログを寄せ集めればよいというものではありません。まだ具体的な方法は見えていませんが、うまく編集し、内容の信頼性をあげていくことによって、専門知からこぼれおちるものを、もしかしたら拾うことができる時代がくるのではないでしょうか。

一人称と三人称の橋渡し

一人称的記述と三人称的記述は方法論が違います。「学際」という考えがその二つの差を埋めていくと考えます。現在の情報社会においては、その差を埋めていく作業が必要なのです。私は若い頃、三人称的な論文を書く研究者でした。メインフレーム・コンピュータのオペレーティングシステムの性能・信頼性の評価や、最適化の数理的研究をやっていたのです。三十代半ばをすぎて、一人称的記述の重要性に気が付き、今では一人称的な生きた体験からどうやって三人称的なところまで行けるか、その方法論を模索しています。私の推測ですが、逆に池上先生は、三人称的なところからいかにして一人称的な「生きてるってどういうことなのか」を模索していらっしゃるのではないでしょうか。